きてん企画室 中田一会さん「人の創造性を信じているから。“起点をつくる”広報コミュニケーションを」
INDEX
ミレニアル世代(1980〜2000年生まれ)の若手PRパーソンは、日々どんなことを想い、どんな感覚をもってPublic Relationsを体現しているのか——。
PR Table Communityでは、さまざまなステークホルダーとの関係構築に力を注いでいる人たちにフォーカスしていきます。
これからのPRパーソンは、社会の中で多様な役割を果たしていくことができるはず。
彼・彼女らがいま取り組んでいること、感じている課題、これからの在り方など、リアルな声をぜひ、聞いてください。
きっと、次世代に求められるPublic Relationsの在り方——「PR 3.0」につながる道が見えてくるはずです。
Profile
中田一会さん Kazue Nakata
1984年東京都生まれ。武蔵野美術大学芸術文化学科卒業後、株式会社インプレスホールディングスにて、出版メディアグループ全体のIR(投資家向け広報)と電子書籍の企画編集を担当。その後、2010年〜2015年3月まで、株式会社ロフトワークのパブリックリレーションズ兼コミュニケーションディレクターとして、企業の広報PR、ブランディング、メディア運営、地域デザインプロジェクトのコミュニケーション設計等を手掛ける。
2015年〜2018年3月まで、アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)に所属。「東京アートポイント計画」「Tokyo Art Research Lab」など、文化事業の中間支援を行うプログラムオフィサーとして勤務しながら、チーム全体の情報発信を担うコミュニケーション・デザイン担当も兼務。2018年4月、フリーランスの広報コミュニケーションディレクターとして独立し、個人事務所「きてん企画室」を設立。
Public Relationsの原点を学んだ、IR担当時代
― 中田さんは新卒で出版社に入社されていますよね。キャリアのスタートは、編集者だったのでしょうか?
中田一会さん(以下、敬称略):いえ、違うんです。私は芸術系の大学を卒業しているのですが、アーティストを目指す学科ではなく、アーティストのマネジメントをする側、美術館学芸員などを目指す人が集まるところで学んでいたんですね。
就職するときも、「つくる人」を支える側になろう、と。そうしたスキルをもった編集者を志望して出版社に入社したのですが、配属されたのが、経営企画室のIR(投資家向け広報)担当だったんです。
― IRですか。いきなり企業経営の近くに身を置くことになったんですね。
中田:そうなんです。それまで美術と言葉のことしか考えてこなかったのに、いきなりIRで。そこで株式会社の仕組みや会社法の基本を学んだり、「会社とは何か?」を考えたりするようになりました。
― 当時は戸惑われたと思いますが、現在のお仕事に活かされていることはありますか。
中田:働いていた出版社の経営幹部は、編集職を経験してきた人が中心でした。だからみなさん思考が編集的で、言葉をすごく大切にしていたんです。
社内報も担当していたので、そうした方たちに新卒の私が取材して回る機会もあって。IRや広報の基本知識はもちろんのこと、組織への理解を深めるとともに、執筆や編集の勉強にもなりましたね。元編集長の取締役が入れてくださる赤字、すごく厳しかったですよ(笑)。
― 意外でした。中田さんのPRパーソンとしての原点は、出版社時代にあるんですね。しかもIR部門やインナーコミュニケーション領域で。
中田:そうですね。まずは“会社や組織の基本”や言葉の扱いをしっかり教わりました。最後の1年間、グループ会社で企画編集の仕事をさせてもらったのも良い経験だったと思います。
名刺に書かれた「Public Relations」という肩書き
― 出版社を退職後、クリエイティブ・エージェンシーのロフトワークに転職されたのはなぜだったのでしょうか。
中田:出版社の仕事も楽しかったのですが、インターネット時代の企業コミュニケーションに取り組みたいと思ったんです。
誰もが気軽に発信し、情報を得られる時代に、企業側が社員とお客さまそれぞれに違うことを伝えていたら齟齬が出てしまいます。
どんな人がどんな考えで働いているのか。仕事を発注したら、どんな人が一緒にプロジェクトに伴走してくれるのか。そうした情報こそ、有効な判断材料になりますよね。
これからの時代、社員やお客さま、誰にとっても「嘘のない伝え方」をしていくことが大事。ロフトワークは「オープンカルチャー」の会社なので、そういったことに取り組めるかなと思って。
― ロフトワークでは、事業の広報活動を担当されることになったんですよね。
中田:はい、ちょうど入社するタイミングで前任の方が退職されて。だから実は、同じ職種の先輩からきっちり学んだことはないんです。
師匠をあげるとしたら、それはロフトワークの創業者で、共同代表の林千晶さんですね。
千晶さんは私が入社したとき、「いわゆる一般的な『企業広報』のイメージとは違う働き方をしてほしい。語義をよく考えて行動してね」といって、私の名刺に「パブリックリレーションズ」と書いてくれました。
ロフトワーク在籍中の5年間は、自分の肩書きを因数分解していくように、「そもそも企業にとっての“パブリック”って何だろう? 関係性を築く仕事って何をすべきだろう?」なんてことをずっと考えていました。
― 名刺に「Public Relations」と入れる会社は珍しいですよね。
中田:つまるところ、Public Relationsとは“ステークホルダー・リレーションズ”じゃないかなと考えるようになりました。既存のお客さまも、メディアの方も、メディアを通じて知りあう方も、SNSのフォロワーも、もちろん大切です。
でも、企業がもっとも近くで接するステークホルダーは会社で働くスタッフ。だからまずはスタッフとの良好な関係性を築き、彼らから発信していくような方法を考えたいと考え、ロフトワークのPRの型を作っていきました。
それ以前のロフトワークは、セミナーの開催と顧客データベース運用を中心としたマーケティング志向のPR活動が中心。私はそこに、「人」や「ストーリー」に焦点をあてたコミュニケーション活動を足し算していくような役割でした。
― 林さんとの仕事で、印象深かったできごとはありますか?
中田:「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しながら抱きついて、大好き! って言うのよ。それがPRの仕事よ」と教えられたことです。
― それはすごい感覚ですね……!
中田:すごいですよね(笑)。「どんなに不当な扱いをしてくる嫌な相手でも、あなたは会社を代表して対外的なコミュニケーションをとる役割なのだから、絶対に反撃してはいけない。むしろ積極的に愛することで対話に持ち込みなさい」と。
OpenCUやFabCafeなど、どんどん新しい事業を展開していった当時のロフトワークで、ひとり広報として働く私を支えてくれた言葉です。
広報の仕事=「芸能マネージャー」?
― ロフトワークでは、どんな仕事をされていたのでしょうか?
中田:ウェブサイトやSNSなど、自社メディアの企画編集や、メディア・リレーションズ、会社案内の制作、新サービスやプロジェクトのコンセプトづくりなどをしていました。
特に力を入れていたのが、社員一人ひとりをフィーチャーすることです。
― それは、お客さまに対する広報活動の一環として?
中田:社外に向けてはもちろん、社内のスタッフに対しても、でしたね。自社媒体やセミナーなどでフィーチャーされることが、社員にとってのステータスになるように。
なるべく多くのスタッフが、“専門家”として外部主催のセミナーやイベントに登壇できるよう手配し、一緒に資料を作ったり、プレゼンのレビューをしたりしていました。
「いいね!」「ここが素敵だから、自信を持って!」と言いながら本番に送り出して、プレゼンを最前列で頷きながら聞いて。
当日はもちろん、登壇の様子を写真に収め、会社のブログにレポート記事を載せてーー。なんだか私の仕事って、芸能マネージャーみたいなだと思っていました(笑)。
― 確かに、お話をうかがっていると「芸能マネージャー」という表現がしっくりきます……!
中田:実際、自分の仕事を自分の言葉でしっかり表現できるようになると、スタッフに自信もつくし、働き方や意識も変わってくるんですよ。
ロフトワークで働いた5年間で、こうした「人」が起点になるコミュニケーション活動は、事業にとっても実りが多いと気付かせてもらいましたね。
より広範な「コミュニケーションデザイン」領域へ
― そのロフトワークを5年で退社し、パブリックセクターに移られたのには、どんな理由があったのですか。
中田:広報の仕事をするには、人それぞれに得意な組織規模があるんじゃないかと思っているんです。
私の場合は、20~30人ぐらいが一番気持ちが良くて、多くても70人くらいまでが限度。見渡せる範囲の場所でみんなが働いていて、お互い顔を知っていて、昨日言ったことを明日のネタにできるくらいの規模です。スケールしていくプロセスには向かないんですよね……。
ロフトワークも、勤めていた5年の間にかなり規模が大きくなりましたし、新しい分野に挑戦してみることに決めました。
― ロフトワークで学ばれた、いわば「社員の個別プロデュース」を活かせる規模感がそのくらいということでしょうか。
中田:そうですね。一人ひとりと向き合える人数ってそのぐらいかな、と。あと私自身も30歳という節目の年だったので、違うやり方を試してみたかったんです。上場会社、ベンチャー企業とビジネスの世界を経験してきたので、次は公共領域で働いてみたいと考えました。
― 転職先のアーツカウンシル東京では、どのような仕事をされていましたか?
中田:文化事業の中間支援をしていました。地域のNPOがアートプロジェクトに取り組む際、必要な計画策定や経理、企画、リスクマネジメントなどのサポートをし、年間を通して共催事業に伴走するものです。
公共事業は、社会にとって大切だけど、営利事業のシステムでは拾いきれていないテーマやトピックを扱っています。その取り組みこそ多くの人に知ってほしいし、透明性が大切なのに、広報が十分になされていないことが多いと感じ、私はそこで役に立てるかなと思ったんですよね。
― ここでも、やはり広報の仕事を?
中田:そうですね。あくまで事業全般の担当なので、広報専門として採用されたわけではないのですが、新規の文化事業の立ち上げに伴ってコンセプトワークを担ったり、Webサイトのリニューアルを担当したりと、広報的な仕事も手がけていました。
そして、入社から1年半ほど立った頃、「コミュニケーション・デザイン担当」という役割が与えられたんです。
― それはどのような役割だったのですか?
中田:事業全体を表現する言葉の見直しや、ブログやSNSなどの発信チャンネルの立ち上げ、関係者リストの整備、PRイベントやウェブコンテンツの企画、専門メディアへの連載企画持ち込み、それらにまつわるルールと仕組みづくりなどです。
事業の広報活動に必要なセットをイチからつくりました。その中でも特に、スタッフがイベント登壇したり、記事を執筆したりする機会をつくり、「伝える力」を磨くことも大切にしていました。
― 最終的にはアーツカウンシル東京でも、芸能マネージャーのような立ち位置で仕事をされていたのですね。
「機転をきかせて、起点をつくる」
― 公共領域で3年働いた後、独立をされました。
中田:はい。もともと「次は独立したい」と思っていたんです。
― 2018年4月に独立されたばかりですが、現在はどのようなお仕事をされていますか?
中田:広報コミュニケーションの戦略設計や、企画制作を手がけています。組織や事業に伴走し、「何をどのように伝えていこう?」という最初の一歩から、組織やプロジェクトを中長期的にサポートしています。
「社長とスタッフのコミュニケーションがうまくいっていないんだけどどうしたらいい?」「社内の共通言語を作りたいんだけど」「起業から数年経ち、実情に合わせて発信内容を見直したい」といったご相談が多いですね。
― さまざまなステークホルダー・リレーションズを手がけてきた中田さん、どのような課題感をもって独立されたのでしょう。
中田:小さな組織や、スタートしたての事業にこそ、広報の手が必要だと思うんです。
なかなか簡単に説明しがたい、新しいことに取り組んでいる人たち。日々、進化し続けているスタートアップ組織や新規事業は、資金的に広報専任者を雇う余裕はないかもしれないけれど、その活動をきちんと言語化して、関係者に伝えていくことが大切だと思うんですよね。
だから私は、長くインハウス広報として働いてきた経験を活かして、事業や組織に伴走する外部パートナーになれたらいいなと考えています。
― これからは、さまざまな企業や組織と関わっていかれるのですね。
中田:私は、誰も見たことのない、“新しいもの”を生み出そうとする人たちの創造性を信じていて。今ある世界を、知恵や工夫でがらりと変えてしまうクリエイティビティを愛しているんです。
「きてん企画室」という屋号には、「機転をきかせて、起点をつくる」という意味を込めています。仕事の起点や物事の起点など、事業と向き合っているとつい忘れがちになりますよね。
さまざまな企業やプロジェクトと関わる中で、“きてん”を何度も繰り返し問い続けながら、組織や事業に必要なコミュニケーションを見極め、ステークホルダーへと伝える活動をしてければいいな、と思っています。
新しいものを生み出す人を、広報起点で“プロデュース”する
中田さんのプロフィールをはじめて拝見したとき、いわゆる「広報道」をひた走ってきた方、というイメージを受けました。しかし実際にお話をおうかがいしてみると、IR領域からエンプロイー・リレーションズなどまでご経験範囲が幅広く、社内外におけるコミュニケーションデザイン、Webでの発信を通じた広報領域において、現場の知見がとても豊富。スタートアップやベンチャー企業、数十名規模の事業会社では、彼女の取り組んできた”Public Relations”の考え方が、とても役に立つのではないでしょうか。(編集部)